以前書いてあったはずのブログを保存せずにいて、紛失してしまいました。
同じものは書けないので、少しづつ書き足します。
内容が内容ですが、私はこの様な親が案外身近にいる気がしてならないと感じ、書いておこうと思っています。
(1) 子供の頃の私
物心付いた時、私は家が嫌で外の小川や田んぼの中の生き物を眺めたり、花や虫が大好きな子供でした。
小川のメダカは、メダカの学校の歌詞通りでしたし、春先の田んぼ一面がレンゲの花に覆われて見渡す限りピンク色になり、遠くに立山連峰が見える、この風景は忘れることのできない映像です。
今はもう見ることができないのです。
6月になると蛍が飛び、暗くなってから皆で見に行きました。
あっちにもこっちにも飛んでいて...
凄い数の蛍でした。
これももう見ることができないです。
家は何しろ嫌いでした。
両親が教師みたいで、私は大人しく良い子である事を常に要求されました。
口答えするとぶたれました。
おやすみなさいときちんと正座して手を付いて両親に言っていました。
(ちょっと恐ろしいです。)
両親は、"良い子の私“を見てニコニコしていましたし、自分達の躾が良かったからだと言っていました。
私は、両親が求めていないことを言ったりやったりするとすぐに怒り、ぶってくるので、チビの頃から両親のことが余り好きではありませんでした。
家が嫌いだった記憶もこのような事が背景にあった気がします。
両親が私の心まで君臨していたのでしょう。
(2) そして...
私は、こうした家庭環境の中で、ある日ピアノを始める事になったのです。
両親は、クリスチャンで、娘には牧師さんの奥様になって教会で奏楽をして欲しいと思っていました。
私は、まだ何のことかわからない3歳でしたから、始めた事の記憶は余り残っていません。
それでも週に一度、田舎のボンネットバスに乗って富山市内のおじいちゃま先生の所にピアノを習いに行く様になりました。
先生は、黒坂富治先生と仰る元富山大学の先生でした。
先生のレッスンでは、毎回歌を歌いました。
私は、この時が大好きでした。
多分、家で色音符バイエルをやってからレッスンに通うようになったと思います。
先生の教室で発表会はなかったのですが、
ラジオ番組に教室全員で参加しました。
私は、ブルグミュラーのアラベスクを弾きました。
ラジオ番組収録の時に名前を言い直しさせられたのを覚えています。
先生は、中田喜直先生の子供のピアノ曲集を紹介してくださり、私はいもむし...や蝶々などを弾きました。
小学校に入学してからもレッスンに通っていました。
でも、クラスメイトがどんどん転勤の為に転校したり、北朝鮮に帰っていきました。
そんな折、私の父も横浜に行く事になったのです。
母は富山出身ですから、とても寂しかったらしく、祖母がよく訪ねてきました。
3学期には、私は横浜市立桜岡小学校1年1組にいました。
(3)